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謡(うたい)

-「能・狂言の音楽入門」 三浦裕子著 (音楽之友社)より-

「謡」とは、能の声楽のことを意味します。「謡をうなる」という言い回しがあるように、喉を締め上げて出す、渋くしわがれた声質を想像しがちです。流儀や立場によってその発声法は異なる部分もありますが、体を楽器に見立てた腹式呼吸による謡は、一般の先入観よりずっと朗々としていて自然体です。この呼吸法は洋の東西を問わず、あらゆる声楽のジャンルにおいて基本的に必要な技法でもあります。

しかし、いわゆる歌曲と大きくちがう点に、演劇の一要素としての声楽であることがあげられます。つまり能での謡は、旋律やリズムなどの音楽的な魅力を発揮すればいいだけではなく、そこにあるドラマを表現することが大切になっています。どんな歌手においても、たとえば私たちにとって最も身近な歌謡界の世界でも、その一曲の中で完結するドラマを聴衆に感じさせることが求められています。歌詞という言語表現をともなう限り、歌曲は器楽のように音の抽象的な動きだけでなく、何らかのストーリー性を有する音楽となる宿命を負っていますが、能の場合にはそこを一歩踏み込んで、具体的なストーリーを展開する立場と役割を果たさなければならないというわけです。

さらに、一番(能や狂言では作品を「〜番」と数えます)の能を通じていつも同じ密度でドラマが展開するのではなく、大まかにいえば、冒頭は一定のリズムと抑揚で謡う、様式化されたセリフであるコトバが比較的多く、後半のクライマックスには「舞事(まいごと)」(謡をともなわない器楽演奏のみによる舞)、「働事(はたらきごと)」(やはり器楽演奏だけでやや表意的な所作を舞うもの)など、純器楽である囃子だけの伴奏による舞踊を役者が舞い、結尾に向かうにつれて拍節の明確な謡の割合が増加してきます。もし、能における演劇性と音楽性が相反するものであるならば、一曲が進行するほどに音楽性がより高くなり、すなわちそれは演劇性が低くなることを意味することになるのですが、実は豊かな音楽によって劇的な要素がより明確に伝わるのが能の表現であると思います。そのからくりをここで、少々考えてみようと思います。

さて、謡によって能というドラマはどう進行していくのでしょう、ドラマティックに謡うということはどういうことなのでしょう。日本の伝統芸術にはほぼ共通のことではあるのですが、能の謡いにも絶対音高の感覚はありません。極端にいえばシテと地謡の得意とする音域によって、その日の核となる音高が定まるのですが、概して悲劇的なものを求める曲目では音を静かに低く、楽しく賑やかな能では声を高らかに張る傾向にあります。

また、能では歌舞伎の女形のように、科を作って女性を意識した作り声をすることはありません。男性の骨格と、男性の声そのものを使って女性を演じます。見慣れないといくらかの不自然さを感じますが、男性が女性の肉体を模倣する事の方が、あるいはよっぽど不自然なのかもしれません。面による演技によって、生身の肉体をそのまま使った写実的な演技を越えてしまったことと、声楽の一種である謡では、何より喉に無理な発声を効果的とは考えなかったからではないでしょうか。加えて、地謡とシテの謡との同質性をとことん追求すると、男のままで女性の役を演じることで生じる何らかのデメリットよりも、男性だけによる声の同一性の心地よさを優先することになるのではないでしょうか。とすると、謡は演劇の一要素でありながら、演じるに際して矛盾が生じても独自の美を追究しているということになり、ここも大変に興味深く思えるところなのです。

先ほど面による演技のことを述べましたが、面をかけて謡を謡うことで、声がくぐもって聞こえにくくなることは当然です。特に意識せずに発声するという役者もいれば、音の後ろの響くように教わったという方もいます。実際、面をかけて声を出すことは体力的にもきつく、シテは数句謡ったところで地謡が引き継ぐことがほとんどです。その役柄を演じる役者が謡うだけではなく、心情や情景などを地謡がかわりに謡うことも多いのです。地謡がシテの演技を蔭で支えるという、この演出に能の面白さの一つの秘訣があると思います。感情を剥き出しにする表現を避ける傾向をこの地謡が助長していると思えるし、役者が舞や演技に集中するためのシステムともいえます。狂言の場合にも必要に応じて地謡が出ることがありますが、その役柄に扮した役者が謡い通すことも多いです。面をつけている場合もあり、軽妙洒脱な演技を観客が楽しんでいる水面下で、狂言の役者は体力の限界に挑むような苛酷な条件で謡っているときがあるのです。


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