和ものエトセトラ HOME

           金唐革

金唐革がいつ頃日本に渡来したのかは、定かではありませんが、およそ17世紀の半ばであったと考えられています。

徳川家の歴史を書いた『徳川実紀』に、寛文二年(1662年)3月、「蘭人入貢金唐革十枚」と記載されているのが発見されています。

十枚とはいかにも少ないですが、それだけ貴重だったに違いありません。

ヨーロッパに比べると、日本の皮革工芸は大幅におくれていました。

いかにも異国的な、豪華な金唐革は珍重され、武士は刀の柄や馬具などに、富裕な商人は煙管入れをつくったり屏風仕立てにしました。

輸入品が増えすぎて寛文八年(1668年)、ついに禁止令が出ます。

贅沢な金唐革も「無用なもの」として指定されてしまいます。「金唐革御停止」です。

禁止令は、いつの世でも表向きだったのはいうまでもありませんが、日本ではこれを機に皮革工芸が進歩します。

鉱山に手を出して借金をかかえた江戸(香川県・志度出身)の発明家平賀源内が、浮世絵版画の手法で、模様の上に漆を塗って金唐革を模作しますが、

この金唐は「雨に差し支え、湿気に弱く」失敗します。

金唐革は、なめした皮に銀色をした合金箔を貼り、その上から特殊な塗料を塗り、

さらに種々の文様を彫り上げた金型の上に置いてプレスしてエンボス(浮きだし文様)を出し、そこに彩色を施したものです。

湿気、光線、自然劣化に強い耐久性があり、虫害にも強く、他の臭いが付くことも少なく、

ホコリなどが付いても掃除がしやすいという利点が多く、布や紙などから比較すれば、はるかに品質が高かったのです。

そのため、金唐革はルネッサンスの時代にメディチ家の庇護のもとに発展しました。

書物の表紙を美しく飾り、椅子の背に張られましたが、何といっても壁面の装飾、高級な壁張りとして発展していきます。

ヨーロッパの住まいも小さな部屋がふえ、城館や教会用に莫大な需要を誇っていたタピスリーの生産も、17世紀を境に衰退が始まります。

代わって金唐革が人気を集めるようになりました。

金唐革は宮廷や城、教会の壁を飾り、そのデザイン、できばえが競われました。やがて城などが改築される時期がきます。

新しい壁布、壁紙に張り替えられるために剥がされた金唐革は、明治になって大量に日本にやってきました。

帯刀を禁じられた武士たちは、これで煙管入れと煙草入れをつくって腰に差し、金唐革の煙管入れが爆発的に流行しました。

「お軽の簪(かんざし)、金唐革の煙管入れ」という軽口言葉ができたくらいです。

明治38年に「ホトトギス」に発表した漱石の『吾輩は猫である』に、「迷亭先生は金唐革の烟草入れから烟草をつまみ出す」と出てきます。

日本に入ってきた大量の”壁張り”金唐革は、たちまち細かく刻まれて大量の煙草入れになりました。

さて、この古い貴重な、金唐革が、「和ものエトセトラ」(染織関連の美術館・博物館)でご紹介させていただきました、「国際染織美術館」で見ることができます。

80センチくらいの幅のヤンピーの革を五枚つないだ、長さが3,2メートルもある金唐革。革に全面はなやかな金彩。

草花に小鳥の模様のテンペラが、300余年も以前のものなのに、”金唐革”の輝きを保っています。金彩がしっかりコーティングされているからです。

これは、17世紀にスペインでつくられたものです。

また、これが珍品なのは、工芸としての価値と同時に、細かく切られずに大きなままで残っている金唐革が少ないからです。

ぜったい、一見の価値あり。金唐革の展示の周辺は明るくはなやいでいるそうです。

和モノエトセトラ HOME