スタッフN村による着物コラム

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先日の東京展は、台風19号の襲来から間もない時期にもかかわらず、たくさんのお客様においでいただき、ありがとうございました。

この度の台風と、その後の大雨で被災された皆様にお見舞い申し上げるとともに、一日も早く平穏な日常を取り戻されることをお祈りしております。

私の住む青梅市も、土砂崩れや河川の溢水による浸水被害があちこちで発生したと聞きましたが、幸い犠牲者はなく、孤立集落も発生しませんでした。

写真は11月初めの多摩川です。橋桁の真ん中辺りまで水に浸かった跡が見えます。川幅いっぱいに水が流れた跡が生々しく、水もまだ濁っています。

多摩川は河口付近の世田谷や川崎で大水害を起こしましたが、上流の青梅ではなんとか持ちこたえました(河川敷や川っぷちの住宅には被害が出ましたが)。

水源地の小河内ダム(奥多摩湖)は日本有数の保水力を持ち、改めてその威力を痛感した次第です。

ちなみに我が家のあたりは荒川水系で、小河内ダムの恩恵にはあずかってないんですがね(笑)。

 

84.「青梅の織物」とその周辺

とーとつですが、アルジャーノンに花束をあげてください…じゃなくて、青梅夜具ってご存知ですか? 

戦前戦後が舞台の朝ドラなんかに必ず出てくる布団地です。こんなやつ。

(ちなみに冒頭にかましたボケは、先日亡くなられた漫画家・吾妻ひでお氏の名台詞です。吾妻氏のご冥福をお祈りします)

青梅あたりの家には、押し入れの奥にこんな柄の布団が必ず一枚や二枚はあるはずです。少なくとも青梅の人なら見たことはあるんじゃないでしょうか。

写真は我が家に残っていた、洗い張りした布団地の端切れです。昔はみんなこんな柄の、薄くてゴワゴワする重い布団で寝ていたんです。

私なんかは子供の頃の寝心地の悪さを思い出して、あんまりいいイメージがないのですが、この独特の色と柄をテレビで見たりすると懐かしくもあります。

青梅夜具は、明治末から昭和30年代頃まで青梅で生産され、最盛期には全国シェアの6割を占めたんだそうです。

NHKの美術倉庫にはさぞやこの夜具地の布団が山と積まれているんでしょう。

朝ドラ『マッサン』の、小樽のニシン小屋にもこんな布団がびっしり敷かれてましたっけ。

青梅市郷土博物館で、「青梅の織物」という企画展が催されていると知り、ちょいと車を走らせてのぞいて来ました。

青梅の織物というと、「青梅縞」という単語をよく耳にするのですが、実物を見たことがなく、なんとなく川越唐桟みたいなもんかと思っていました。

博物館の展示はこの「青梅縞」から始まります。解説を読むと、絹と綿を交ぜた絹綿交織の縞物で、そこから川唐とは全然違います。

江戸時代後期の亨保年間の文献に登場するのが最初のようで、江戸の三越や京大阪にまで販路を広げ、広く流通していたようです。

写真は文化文政期、明治初期に織られた草木染の反物で、非常に貴重なものだそうです。明治に入って化学染料の乱用などで質が落ち、徐々に衰退。

その後青梅織物組合が結成されて製品を改良しつつ、力織機の導入などもあり、明治末には着尺地から夜具地に転換したとのことです。

なーんだ、見たことないわけだ青梅縞。絹綿交織なら、祖母の古い着物を羽織に仕立て直して愛用してますが、絹のような手触りと艶でとてもいいものです。

絶滅したのか、残念だなあ。この青梅縞と青梅夜具がしばしば混同されがちですが、その違いがここでしっかり押さえられました。

さて、青梅夜具です。古いものは格子柄もありますが、だいたいこんな色柄が中心で、横段に花や鳥や壺(なぜ?笑)などが織りだされています。

オレンジ系と言うか、朱赤から茶色のイメージが強いですが、なんでもこの色の染料が安く大量に手に入ったからだと聞いたことがあります。

織り方が独特で、ほぐし織りという技法です。経糸を張って、荒く緯に仮糸を通しておき、経糸に捺染で柄を染め付けます。

染めあがったら仮糸を外しながら緯糸を打ち込みます。これは先日BSプレミアムの『イッピン!』で取り上げていた秩父銘仙と同じ技法です。

秩父銘仙も明治末から昭和初期にかけて大流行した着物ですが、このほぐし織りの特徴は、生地に裏表がない、というか、裏表同じに織れるということです。

着物であれ、布団地であれ、裏表がないということは、汚れたらほどいて洗い張りして、裏返しに仕立て直せば新品のように蘇ります。

着物も布団も家庭内で手縫いで仕立てていた時代、これは重宝です。そりゃあもうヒットしますわな。

我が家に残っていた端切れには何箇所か縦に裂け目があります。破れたところは除いて、別の布をあてがったのだと思います。

古い青梅夜具の布団はいろんな柄が混じっているものがあります。そうやって継ぎ足し継ぎ足し使ったのでしょう。

そういう意味でも色柄が似たような感じだというのは、パッチワーク状になっても違和感がないという利点がありますね()

戦前に隆盛を極めた青梅夜具も、戦争中は大打撃を受けますが、昭和20年代なかばにはいわゆる「ガチャマン景気」の到来で、その生産は再び大復活。

ガチャマンとは織機がガチャンと鳴るたびに万の金が入ってくるという意味で、青梅夜具は売れに売れ、青梅の街は好景気に沸き返っていたそうです。

これは当時のポスターで、モデルはその頃の大スター・香川京子です。香川京子を起用できるということから、どんだけ儲かっていたかわかります。

しかしその栄華も長くは続きませんでした。そもそも青梅夜具は、着尺と同じ小幅で織られてます。てことは、いちいち接ぎ合わせて仕立てるわけですわな。

ヤール幅で織られたポリエステルやレーヨンの安くて軽い布地が普及し、マットレスが登場し、椅子テーブル、ベッドの洋風生活に変化する高度成長期、

布団の打ち直しを家庭ですることなどなくなっていき、あっという間に青梅夜具は衰退していきます。

私が子供の頃(昭和40年代)には、市内にいくつもあった織物工場が次々と閉鎖し、ノコギリ屋根の建物は無人の物置と化していきました。

最後まで残った工場が平成11年に廃業し、青梅夜具は完全に絶滅しました。まさに一炊の夢、であります。

青梅の街もすっかり寂れて、駅前のスーパーは撤退、さんざんお世話になった本屋も、レコード屋も、文具店も、ミスドもシャノアールもコロラドも…

みんななくなってしまいました。映画看板や昭和レトロで町おこしを図っているようですが、地元民が歩いてないんじゃ話になりません。

近頃この青梅夜具で町おこしをと、バッグや小物に仕立てて売り出しているようですが、私なんかは布団のイメージが強くてなんだかなあ、という感じ。

とはいえ、青梅夜具の布団の記憶があるのは、多分私達くらいが最後でしょうから、若い人にはレトロで素敵、と映るのかもしれません。

ところで、展示品の中に、明治時代の三越の広告チラシがあり、「二タ子縞大売り出し」とありました。

今はもう生産を中止した川越唐桟の織元が織っていた、「野田双子織」のことらしく、青梅の織元でも生産していたようです。

青梅から視野を少し広げると、色々なつながりが見えてきてなかなか興味深いです。

秩父銘仙は今でも何軒かの織元さんが新作を織り続けていて、青梅夜具と同じ技法を用いています(群馬の伊勢崎銘仙はまた違う技法だそうです)。

以前川越唐桟の織元さんと話したとき、うちの近所の染色工場(今は布団洗濯工場)で糸を染めていたと聞きましたし、

私の祖母の実家は野田(入間市)の生糸問屋です。その祖母の長女である叔母の嫁ぎ先は、飯能で村山大島用の紡績工場を営んでいました(今はマンション)。

村山大島は主に武蔵村山市で生産される、板締めによる先染め織物で、都の無形文化財に指定されています。決して大島紬のニセモノではありません。

ま、見た目そっくりですけど、染料は化学染料でお値段は大島紬よりなんぼかお手頃。私も祖父、母、姉のお下がりを何枚か持っています。

秩父銘仙は捺染で、先染めと後染めの中間みたいな技法、村山大島は板締めの先染めと技法は違いますが、織物の組織としてはほぼ同じだそうです。

いつだったか、押し入れを整理していたら、未使用の名入りタオルがごっそり出てきました。飯能の叔母のところからもらってきたもののようです。

〇〇織物、〇〇紡績、〇〇染色、繊維関係の会社ばかり。今も使っていますが、見るたびにこの中で残っている会社がいくつあるんだろうと思います。

あれもこれもほんの40年ほど前の話です。令和元年の秋、「降る雪や明治は遠くなりにけり」ならぬ、「青梅夜具昭和は遠くなりにけり」…お粗末。

(あ、季語がない。なっちゃんに叱られるw)

 

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