スタッフN村による着物コラム

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夏野菜が順調に生育しています。

写真左からキュウリ、奥はピーマンと甘長唐辛子、中央はズッキーニ。

右はミディトマト、奥はナスです。トマトのさらに右にはオクラも成長しつつあります。

ズッキーニは先日まで虫除けネットで覆っていましたが、花が咲き始め、葉っぱも大きく育ったので外してやりました。

ズッキーニは雄花雌花があって、人工授粉してやらないといい実が成りません。

まあ、雄花の雄しべを雌花の中心にこすりつけるだけなんですけどね。

写真はそろそろ収穫できるズッキーニの実と、今朝受粉させてやった雌花です。毎朝9時までには見に行かないといけないので、結構手のかかるヤツ。

でもこないだ新聞のコラムでいい言葉に出会いました。「足音が肥やしになる」。

毎日見に行ってやること、それがいい作物を作る要諦なんだとか。

…深いですね。

 

60.アルフォンス・ミュシャ展「スラヴ叙事詩」

3月から開催されていたミュシャ展、いよいよ終了だというので、終了4日前の6月1日、乃木坂の国立新美術館へ出かけました。

ミュシャといいますと、アールヌーヴォーの旗手として日本では特に人気があり、普通思い浮かべるのはこっちですよね?

しかし今回のメインは、彼が商業美術で功成り名を遂げた後、自らの民族の歴史を壮大なスケールで描いたファインアート「スラヴ叙事詩」です。

ミュシャの故国・チェコ国外で世界初公開の超大作20点が一挙展示ということで、行かなくちゃと思いつつ、終了ギリギリになってしまいました。

でもま、もう見たい人は見ちゃっただろ、と思い余裕で出かけましたとも。国立新美術館は地下鉄乃木坂駅から直接入館できる便利なところ。

チケット売り場に向かって行くとなにやら不穏な立て看板が…「ただいま入場90分待ち」!?マジっすか!? いやしかしここで諦めては後がない。

チケットを手に入館すると、一階のホールは十重二十重に折れ曲がった行列が外へ延び、中庭の真ん中で「最後尾こちら」というプラカード。

とにかく行列に付くとあっという間に私の後にも人が続々。それなりに列は動くものの、外の行列も九十九折りに折れ曲がり、坂を下ってまた上って。

梅雨入り前の強い日差しが照りつけ、途中に給水所まで用意されてる。木曜日という平日のお昼頃。どんだけミュシャ好きなんだよ日本人!(オマエモナー)

30分ほどでようやく館内へ。と、じりじりと進む列にアナウンスが。「外は大雨です! 少しでも中に入れるよう、列を崩して横に広がって下さい!」

うわ! いつのまにか土砂降りの雨! 私はギリギリ間に合ったようです。外に並んでいる人たちはいったいどうなったのでしょうか。

ようやく二階の展示室へ向かうエスカレーターに来ると、10人ずつ間を空けて上らせています。これでじりじりと進んでいたんですね。

エスカレーターを下りてまた並び、10人ずつの入場。90分待ちということでしたが、なんとか一時間くらいで入れました。

入り口の向こう側にまた大行列があるので、何かなと見ると、グッズ売り場の順番待ち。みんなクリアファイルやポストカードを手におとなしく並んでます。

まあ、ミュシャならグッズ欲しいよなあ、と思いつつ中に入ると、当然ながらまた人人人…。

しかし、その人波の頭越しに現れた「スラヴ叙事詩」の連作はとてつもなくデカい! たたみ二十畳はあろうかという巨大な作品群が20点。

これを一人で16年かけて描き上げたそうです。凄いエネルギーと集中力。レンブラントだってダヴィッドだって、あのデカい絵を一人で描いちゃいないよな。

だからちょっと薄塗り? いやそういう画風? まあ、こてこてと絵の具を盛り上げていたら、とても16年で20点は描けないと思いますが。

ここまでミュシャを突き動かしたものは何だったのか、図録の解説(とwiki)を頼りにひも解いてみたいと思います。

ミュシャは1860年に現在のチェコ、当時はオーストリア帝国領のモラヴィア生まれ、チェコ読みではムハ。ミュシャは彼が活躍したフランスでの読みです。

貴族の援助でパリへ絵の勉強に来た彼は、突然その援助が打ち切られ、生活に困窮。挿絵やポスターの仕事で食いつなぐ日々の中、チャンスが訪れます。

大女優のサラ・ベルナールの舞台のポスターを依頼され、これが大当たり。出世作『ジスモンダ』のポスターは、その独特の装飾性と色彩が大評判。

大女優はすっかりミュシャに惚れ込み、ポスターのみならず舞台美術から衣装デザインまで6年にわたって彼に任せます(しかし器用だな、ミュシャ)。

ミュシャはすっかり売れっ子デザイナーとなり、商業用ポスターからタバコやクッキーや石鹸のパッケージデザインまで、世紀末のパリを席巻しました。

1900年のパリ万博で、ボスニア・ヘルツェゴビナ館の装飾を任された頃から、彼は自分の中のスラヴの血と、画家としての矜持に目覚めて行きます。

いくら商業デザイナーとして成功を収めても、やはり画家として認められたいという欲求は抑えがたく、「スラヴ叙事詩」の構想を練り始めます。

資金調達のために渡ったアメリカで、同じチェコ出身の作曲家、スメタナの交響詩『わが祖国』(モルダウが有名ですね)の演奏を聴いたミュシャは、

自分もスラヴ民族として祖国のための芸術を打ち立てようと志し、大富豪の経済的援助を取り付けると、作品のための精力的な取材に取りかかります。

ところで、スラヴ民族っていったい何でしょう。正確にはスラヴ語系言語を話すおもに東ヨーロッパに住む人々で、「スラヴ民族」という名の民族はいません。

ロシア、ウクライナを始めとする旧ソ連や、ミュシャのチェコ、スロバキア、ブルガリア、ポーランド、セルビアなど、東欧諸国の民族の総称みたいなもの。

こうした諸民族は、中世にはポーランドやセルビアの隆盛があったものの、トルコやドイツの支配下におかれた歴史が長く、民族の独立は悲願でした。

20世紀初頭、その機運が「汎スラヴ主義」として高まりを見せ、ミュシャもその一人として、スラヴ系民族の一大歴史絵巻に挑む決意をしたのです。

 

さて、作品鑑賞です。チラシに使われた青基調の絵が第一作「原故郷のスラヴ民族」。

キリスト教が入って来る前の、多神教を信じる農耕民族であったスラヴ諸国は、東はフン族、西はゲルマンの襲撃にさらされていました。

右上に浮かぶのは多神教の祭司、左下の人物は戦乱から逃げ惑う農民たち。背後からは異民族の軍隊が雄叫びを挙げて押し寄せています。

正面を見つめる農民の怯えたまなざしが、彼らの苦難の歴史を予言するかのようです。

ここから数百年にわたるスラヴ諸民族の歴史的エピソードが20作展開する訳ですが、登場人物も各エピソードも、正直言ってひとっつも知りません。

ブルガリア皇帝シメオン一世、ボヘミア王プシェミスル・オタカル二世、セルビア皇帝ステファン・ドゥシャン、ヤン・ミリーチ、ペトル・ヘルチツキー…

かろうじてヤン・フスという名前だけは宗教改革関連で聞いたことがあるかなあ。宗教改革っつったらマルチン・ルターとカルヴァンしか知らんわな、普通。

つか、我々が学校で習う西洋史なんて、せいぜいギリシャローマから始まって、ゲルマン、フランク、そっから英仏独露伊蘭、ヒットラー第三帝国の崩壊まで。

そんなとこだよね。ポーランドはしょっちゅう分割されたり侵略されたり、セルビアなんてサライェボ事件でちらっと出て来るだけだし。

ことほどさように、我々は東欧の歴史も地理も、これっぱかしも知らないことに気付かされます。

第1作から第3作が特に完成度が高いとされているようで、古典的な写実描写の上に、いかにもミュシャっぽいグラフィックなデザインが重なります。

第3作の「スラヴ式典礼の導入」では、右上にはイコン風の人物が浮かび、手前の輪っかを持った青年は、逆光で、しかも絵の枠からはみ出しています。

ちょっと飛び出す絵本みたいな描き方。こうした工夫が、バロックの歴史画とは一線を画しています。

解説を読むと、ラテン語ではなくスラヴ語で典礼を行うことをヴァチカンに認めさせるだけでどんだけ苦労したんだよーと、またそこでも民族の苦闘が。

第4作から16作までは歴史的場面を比較的ストレートに描写した構図が続きます。戦争がテーマの物もありますが、常に戦闘の終わった後を描いています。

17作から20作は再びミュシャの面目躍如なグラフィカルな画面になります。

18作「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」は、人物のポーズがナチスの敬礼みたいだとか、鉤十字のようなものが描かれてるとか、

いろんなイチャモンが付き、これのみ未完成で、ミュシャも生前には一度も公開しなかったようです。20世紀に入っても、民族の苦難は続きます。

20作「スラヴ民族の讃歌」は、第一次世界大戦が終り、悲願の独立を果たしたチェコスロバキアを始めとするスラヴ諸国家を讃えています。

独立の助けとなった連合国の国旗も描かれ、アメリカの星条旗も見えますが、この星条旗があるだけで、なんだか急にポップな感じになるのは何故でしょう。

しかし祖国独立のための力になろうとこの連作を始めたミュシャでしたが、なんと制作中に第一次世界大戦が終結し、

チェコはスロバキアと連合してではありますが、独立を果たしてしまったんですね。これはミュシャには気の毒ですが、ちょっとお間抜けな展開でした。

民族の独立と連帯というテーマは急速に陳腐化し、美術界のトレンドはシュルレアリズム全盛。保守的で古臭いというレッテルを張られてしまいます。

作品を寄贈されたプラハ市もなんだか持て余し気味で、このデカい作品群の常設美術館を建てることが出来ず、近年まで郊外の古城に保管されていました。

2012年になってようやくプラハ国立美術館ヴェレトルジュニー宮殿に移管され、全作が公開されることになったのです。

そんな最近再評価されたものが、たった5年で全作日本で公開されるというのは実に大したもんだと思います。日本人のミュシャ愛恐るべし。

ミュシャはそもそもヨーロッパでは、画家としての評価があんまり高くないらしいです。どうしても商業美術家として一段低く見られてるっつうか。

でもさ、100年近く経てば、アールヌーヴォーも民族独立もシュルレアリズムもみーんな歴史の彼方。古いも新しいもなくなってしまう。

アールヌーヴォーはそもそも日本美術の影響が顕著だし、スラヴ的な風貌や衣装なんかもどこかオリエンタルで日本人にはなじみやすい。

商業的だろうが民族主義的だろうが、美しい物は美しい。日本人がミュシャ好きで悪いか? ああ? って感じですよね。

「スラヴ叙事詩」の他にも、ポスターや壁画の下絵など、アールヌーヴォー時代の作品展示もありましたが、とにかく人が多い。

その辺はむかーし(図録を引っ張りだしたら1983年、実に34年前!)の「アルフォンス・ミュシャ展」でたっぷり見たので、さっさと通過。

さてグッズでも買って帰ろうと思って売店に行くと、ここもまた阿鼻叫喚の大混雑。ポストカード4枚と図録を買うのに40分くらい並びましたよ、ゼエゼエ。

それにしても最近の美術展は、人気のあるものはホントに体力勝負ですね。去年の伊藤若冲展で友人が2時間半並んだそうですが、ご苦労なことです。

今回も上野でブリューゲルの「バベルの塔」展が開催中で、どっちにしようか迷いましたが、あっちもさぞかしでしょう。

まあこっちで正解かな。なんせ、あっちは作品が小さい! こっちはとにかくデカいので、人の頭越しでもなんとか見ることができます。

そうそう、ひとつ不思議だったのは、第1819作あたりの展示室で、やたらカメラのシャッター音がするので、マナー悪いなと思っていたんですが、

監視員もとがめないので、その部屋は撮影オッケーだったんでしょう。しかし、美術展でスマホかざして写真撮りまくってるってどうよ?

私は未だにガラケーなので、もとより撮ろうと思いませんが、あのデカい絵をスマホで撮って何するんでしょう。

作品見返すなら図録を見た方がよっぽどいいし、本物を見た、というインプレッションはスマホの画面なんかにおさまるもんじゃないと思うけどなあ。

ま、それやこれやで入館まで1時間、鑑賞1時間、グッズ買い40分、ぐったり疲れて次の目的地に向かいました。

せっかく都内に出たので、久々に浅草へ足を伸ばし、欲しかった和装小物を買いに行くのです。浅草レポートはまた次回に。もうへとへとなんで(笑)。

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