スタッフN村による着物コラム
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いやー、毎日毎日あっついですねえ。
関東は平年並みに梅雨明けしてから、連日猛暑に注ぐ猛暑。
4月から5月は日照り、7月前半は日照時間が半月で数時間という日照不足、そしてこの猛暑で、野菜の出来がイマイチです。
どの野菜も硬くておいしくない…なんだか畑仕事に熱意がわきません。
そんな日々の中、あんどん作りに仕立てた朝顔が花をつけ始めました。
朝7時頃の写真です。もう30分もすればしおれてしまう儚い命ですが、夏の朝のささやかな清涼剤ではあります。
45.5月の文楽・二代目吉田玉男襲名披露公演
えー、この暑い盛りにまだ5月のレポですみません。
今回は吉田玉女改め二代目吉田玉男の襲名披露公演です。
先代玉男師が亡くなったのは平成18年ということですから…エエッ!?もう9年になるのか!
私が文楽を見始めた頃、先代玉男師は重鎮中の重鎮で、人間国宝で押しも押されもせぬ名人で…と言われてましたが、正直どこがスゴイのかわかんなかった。
ほとんど動かないし、ただ人形持って突っ立ってるだけのじいちゃんにしか見えなかったんですよねー。
必ず相手役を勤める蓑助師の華やかな動きに目を奪われていたこともあるんだけど、「それ」はある日突然にやって来ました。
忘れもしない、大坂国立文楽劇場での『沼津』。主役の十兵衛が玉男、ヒロインお米が蓑助、親爺平作が故・文吾、大夫は人間国宝住大夫の全段語り。
突っ立ってるだけの十兵衛が色っぽい、カッコイイ。周囲の配役も素晴らしく、住大夫の熱演も最高で、文楽見て初めて号泣しました。
この舞台に間に合った、ということがどんなに幸せな事だったか。
間もなく文吾が亡くなり、その翌年には玉男師もこの世の人ではなくなってしまったのですから。
あれから10年、住大夫も引退し、やや寂しくなった文楽界ですが、弟子の玉女が、二代目を襲名する運びとなりまして、まずはめでたいことです。
5月はもう単衣と決めているので、この日は頂き物の石下紬(結城の隣、と呼んでますw)に綿イカットの帯で。
この紬、地色がアイボリーというか、かなり黄味がかっていて、しかも柄が臙脂、青、焦げ茶で、着てみると実に厄介な色目なのです。
白い半襟だと地色が黄ばんでいるように見えるので、この日はグレーの保多織の半襟にしました。いずれ薄いグレーかなにか色掛けしてやろうと画策中。
さて、公演の方は、最初の演目はどうせ間に合わないからと余裕で駅から歩いて行ったら、
この『五條橋』というのが10分足らずの幕で、次の幕にギリギリやっと間に合ったよ、ふう。
次は『新版歌祭文〜野崎村の段』。いわゆる「お染久松」ですね。
歌舞伎でも文楽でもよく出る演目で、何度となく観てますが、あたしゃあこの話がキライでねえ。
お光という許嫁がありながら、丁稚のくせにお店のお嬢様・お染を妊娠させてしまう久松。
それをバックレてお光と祝言を挙げようとしたところに追っかけて来たお染と心中の約束をする二股久松。どうです、サイテーでしょ?
んで、久松と一緒になれなきゃ死ぬ死ぬと騒ぐ馬鹿娘に折れて、いったんそれを許すお染の馬鹿母。
「うれしかったはたった半刻」と、自分が身を引いて尼になり、心中を思いとどまらせようとする健気なお光。お光がかわいそうすぎるじゃありませんか。
しかも、あまりこの後は上演されませんが、結局お染と久松は心中してしまうんです。お光の犠牲はまったくの無駄。ああかわいそうだ。
さくっと次へ。
次は襲名公演のお楽しみ、襲名披露口上です。
舞台上には中央に新・玉男、上手側に三味線の人間国宝・鶴澤寛治、隣に大夫のトップ・豊竹嶋大夫、下手側に人形の吉田和生、桐竹勘十郎。
一番下手に進行役の竹本千歳大夫、で、後列に吉田玉男一門の人形遣いがずらり。
歌舞伎の襲名だと本人が観客に向かって口上を述べますが、文楽では本人は頭を下げっぱなし。これは二代目桐竹勘十郎の襲名でもそうだった。
人間国宝は三味線の寛治だけで、その代わり、同期入門だという和生と勘十郎が口上を述べました。
まあ、人形の国宝二人(蓑助、文雀)の体調があまりよくないこともあるんでしょうが、かえってハツラツとしててよかったかも。
で、ふだんはもう孫の寛太郎の横で時々ペペ〜ンと三味線を鳴らしてるだけ、みたいに見える国宝寛治の口上が実に面白かった。
新・玉男は、そのへんのフツーの中学生で、人形遣いが不足した時に、
近所に住んでた吉田玉昇がちょっとおっちゃんの手伝いしてくれへんかー、と連れて来たんだそうです。
そのとき同じように連れてこられた中学生が勘十郎と和生。まあ、勘十郎は先代勘十郎の息子さんですが。
アルバイト気分で、どこまで続くかと思っていたら、3人とも正式に入門して50年近くも続いてしまったそうな。
まだ60そこそこで50年ってねえ。でもまあ、そのとき中坊どもを騙して(?)連れて来たおっちゃんたち、GJ!であります。
当代は、先代に較べれば色気が薄く、無骨な感じで和事はイマイチだけど、武将や英雄は豪快で、硬軟ともにこなす勘十郎とのペアは息もぴったり。
端正な和生と3人そろうと、いいアンサンブルだなあと思います。ちなみに勘十郎の師匠は国宝蓑助、和生の師匠は国宝文雀。
それぞれの師匠の域まではまだこれからなんだろうけど、元中坊トリオの切磋琢磨がますます楽しみであります。
ロビーには襲名祝いの祝儀袋や、胡蝶蘭が飾られています。なぜか「北野武」からのお花も。そういや、文楽をフィーチャーした映画、あったな。
祝い樽の酒が、「熊谷の酒・直実」っつうのがいいですね。つか、あるんだ、そんな酒。もちろんこの後の襲名演目にちなんでのことですが。
てなわけで、襲名演目は『一谷嫩軍記〜熊谷桜の段、熊谷陣屋の段』であります。もちろん玉男の熊谷次郎直実。
妻・相模が和生、藤の局が勘十郎と、中坊トリオそろい踏みです。
歌舞伎でも「熊谷陣屋」はよく出ますが、「熊谷桜」から上演する事はほとんどありません。
歌舞伎では相模をベテランの立女形、藤の局を若女形が演じる事が多いのですが、「熊谷桜」から通してよく見ると、それはちょっと不自然です。
宮中に仕えていた藤の局はかつて熊谷と不義を犯した相模を助けて東国へ逃がし、自身は後白河院の子を身ごもったまま平経盛に嫁した。
藤の局の子は敦盛、相模の子は小次郎、同い年の子を持つ母親同士ですから、そんなに歳は変わらないはず。
そして我が子敦盛を討ったのが相模の夫であると知り、藤の局は息子の仇討ちに協力せよと相模に迫ります。
この場面があるので、次の「熊谷陣屋」の段がとてもわかりやすいのです。
熊谷は義経からの「一枝(一子)を伐らば一指(一子)を切るべし」という謎めいた命令に従い、敦盛の身代わりに我が子小次郎を殺します。
主君からは褒められますが、世の無常を感じ、その場で出家してしまいます。「十六年は一昔、夢であったなあ」とか言っちゃって、当人はそれでいいだろうさ。
討たれたのが敦盛ではなく小次郎と知って、藤の局は喜びますが、相模のほうはたまったもんじゃない。
「ええ胴欲な熊谷殿、こなた一人の子かいのう」と泣き口説く、このセリフは確か歌舞伎にはありませんが、げにもっともな言い分です。
歌舞伎だと熊谷は相模も舞台に残して、一人僧形となって花道を引っ込んでしまいますが、文楽だと夫婦連れで旅立ちます。
そこがまあ救いでもあるし、全体に女たちの心情を丁寧に描いていて、忠義一辺倒の男の世界じゃないんですよね。
歌舞伎の役者中心の演出も(役者が良ければw)カッコイイけど、戯曲としてはやっぱり原本である文楽の方が優れていると思います。
無骨で不器用な武将・熊谷直実は、新・玉男のニンにぴったりの演目。和生・勘十郎もさすがの好助演でした。
そうそう、「陣屋」の後半の、清介の三味線がバッチンバッチン気合いが入っていて、ともすれば寝落ちしそうなところを叩き起こしてくれました。感謝っす。
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