スタッフN村による着物コラム

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我が家の自慢の木瓜(ボケ)の花が満開です。

明治生まれの祖母が嫁いで来たときにはもうあった、という話なのでゆうに100年は経っているかと思われます。ちっちゃくても古木ですね。

ガクの中に甘い蜜をたっぷり持っているので、子供の頃はよく花をちぎってガクを割り、中の蜜を吸ったものです。

この蜜を求めて鳥がたくさんやってきます。

かわいいメジロの姿を激写! ちょこまか動くのでなかなかうまく撮れないのですが、偶然ピントが合いました。

しかし一番よくやってくるのは図体のでかいヒヨドリ。

こいつはデカい体で花を蹴散らかすので、見つけると追っ払います。

ね? かわいくないでしょう。こらっ、シッシッ!

 

22.春、そして『ホロヴィッツとの対話』

ようやく春爛漫、と言いたいところですが、今年も異変だらけ。

冬が猛烈に寒く、いきなり春になったと思えば夏のような暑さで、冷え込めばまた真冬なみ。

花粉は昨年の5倍とかで、その上黄砂にpm2.5とやらが加わり、3月10日は向かいの山が霞むほど、空が真っ黄色になりました。

車は洗っても洗ってもウィンドウが曇り、もはや洗車は無意味。

花粉症持ちではない私ですら、目がチカチカしてくしゃみの嵐でした。

あまりの暖かさに勘違いしたのか、桜が咲いたのはいいけれど、寒さで花芽が霜焼けしたらしく、ぽつりぽつりとしか花がつきません。

我が家の近所、および近隣の山間部の桜はスッカスカ。

特にソメイヨシノがダメみたいで、山桜はなんとか頑張ってるかな。

家のベランダから向かいの山の山桜がよく見えて、毎年楽しみにしていますが、今年もソメイヨシノに遅れて満開になりました。

例年に比べるとなんだか影が薄いような気がします。

そうそう、我が家の庭にもカタクリ、あったんです。3株ほどですが可憐な花をつけました。去年は気づかなかったよorz…。

昔はあちこちに群落があったんですが、乱獲されてほとんど見かけなくなってしまいました。

その結果、こうやってウチの庭に咲いてる訳か…(汗)。

 

それはさておき、三谷幸喜の最新作『おのれナポレオン』、制作発表された時からどうしても観たくて、

チケ取り合戦に五度参戦して五度討ち死に。もうね、縁がないと思って諦めましたよ。ええ、どうせ山本耕史が見たいだけですから。

と、ふてくされていたら、その代わりというのもナンですが、同じく三谷の新作『ホロヴィッツとの対話』のチケットが友人から回ってきました。

行けなくなった奥さんの代打ということで、ホイホイ喜んで出かけましたよ。

実はナポレオンに気を取られていたので、こっちの芝居はまったく予備知識なし。2、3日前に新聞の演劇欄で初めて知ったのでした。

世界のケン・ワタナベこと渡辺謙、初舞台という和久井映見、ベテランの段田安則と高泉淳子の4人だけの芝居。

天才ピアニストのウラジーミル・ホロヴィッツ(段田)とその妻ワンダ(高泉)、名調律師のフランツ・モア(渡辺)とその妻エリザベス(和久井)。

モア夫妻のニューヨークの家にホロヴィッツ夫妻が夕食に招かれる、その一夜のお話。

ホロヴィッツ夫妻の訪問を前に、あわただしくも緊張するモア夫妻。

なぜならホロヴィッツ夫妻はものすごくエキセントリックで傍若無人。

飲料水の銘柄からディナーのメニューまで事細かに指定され、客が来る前からエリザベスはイライラ、プンスカ。

そしてやって来たホロヴィッツ夫妻は、モア夫妻の気持ちなどお構いなしにワガママ放題。

平服で、と言ったのにごってり盛装のワンダ、飲み水が指定したエビアンじゃないからイヤだとホロヴィッツ、

指定メニューのパスタは太さが違う、ムール貝はイヤだ、テレビが見づらいから家具の配置換えをしろ、ああでもない、こうでもない…。

ちっちゃい和久井映見と段田安則(ナマで見るとホントにちっちゃい)に挟まれて、

右往左往するでっかい渡辺謙(ナマで見るとホントにでっかい)がいじらしい。

名指揮者・トスカニーニを父に持つワンダは気位が高く、やることなすこと上から目線。

料理や衣服や子育てのことまで、ことごとくエリザベスに指図する。

そして自分の娘(名前忘れました!)がいかに才能にあふれ、教養ふかく、親思いであるかをことあるごとに賞賛する。

いよいよエスカレートする娘自慢に、ついにエリザベスがキれ、その自慢の娘はもうこの世にいないことを暴露する。

暴露、というか、それは観客に対してであり、劇中の人物はそれを承知しながらワンダにつきあっていたのだ。

娘はトスカニーニの孫、ホロヴィッツの娘と言うプレッシャーと、それ故の母の過大な期待に押しつぶされ、自滅した(自殺、とは言っていない)。

その事実を認めようとしないワンダ。

それまでシットコム風だった芝居は一転シリアスに。フランツは敗戦後の故国ドイツで、音楽がいかに人々の心を救ったかを語る。

ナベケンは声涙ともに下る熱演だけど、この長い独白はホロヴィッツ家の悲劇とあまり有機的に結びついていないような気がしたなあ。

クラシック音楽にうといせいか、今回の脚本にはあまり共感できなかったのだけど、近年の三谷幸喜作品に共通する傾向は感じました。

『コンフィダント〜絆』ではゴッホとその周辺の画家たち、『ろくでなし啄木』では石川啄木、『べッジ・パードン』では夏目漱石。

『竜馬の妻とその夫と愛人』も、死せる竜馬に振り回される人々の話でした。

「才能」ないし「天才」という存在に振り回されるフツーの人々、天才とはなんとハタ迷惑で才能とはなんと残酷なものか。

ってもうこれは『アマデウス』ですね。

『アマデウス』は映画でしか見ていませんが、天才・モーツアルトと凡才・サリエリの対比が絶妙(ちょっと極端ではあるけど)で、

「アマデウス・コンプレックス」なんて言葉もあるくらい。

求めて得られない才能への嫉妬、そして才能と人格は必ずしも伴わないというイライラ。

何より「天才を理解する能力」だけは与えられたという凡才の苦しみ。

何かを表現しようとする人なら誰でも思い当たるこのテーマは、最近の三谷作品に通底しているように思います。

するってえと、次作の『おのれナポレオン』の展開がおぼろげながら見えるような気が。うう、やっぱり観たい…。

ちなみに段田安則演じる天才・ホロヴィッツはワガママでハタ迷惑なジジイでしたが、チャーミングでもありました。

ワンダを演じた高泉淳子は堂々たるクソババっぷりで、舞台を席巻してました。高畑淳子と間違えててゴメンナサイ。

和久井映見は初舞台とのことで、他と比べちゃかわいそうだけど、いっぱいいっぱいな感じ。

でも大きなナベケンに食って掛かる姿は小型犬が必死でシベリアンハスキーかなんかに吠えかかってるみたいでかわいかった。

で、世界のナベケンは声も姿も顔も大きくて立派。やっぱり舞台出身なんだなあと思いました。

ナベケン演じるフランツ・モアは調律師ですから、ホロヴィッツとの間にアマデウス的葛藤はありません。十二分に振り回されてますが。

そういう意味では今回の影の主人公は、ホロヴィッツ夫妻の亡き娘なのかも。

「才能」という業、表現の場に身を置きさえしなければ、どーおでもいいことなんですが、そこが業なんですね。

果たして三谷幸喜自身の立ち位置はモーツアルトなのかサリエリなのか。

たぶん、両方なんだろうと思いますけど。

「選ばれてあることの恍惚と不安と、ふたつ我にあり(byヴェルレーヌ…間違っても太宰治じゃない)」ってやつですかね。

あ、じゃあ次はヴェルレーヌとランボーでひとつお願いしたいわあ。ランボーの配役には絶世の美少年でヨロシク。

 

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