スタッフN村による着物コラム
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H24.3.15更新
あれから1年。季節は残酷なほどに巡ってきます。
東日本大震災で被災された皆様に、あらためてお見舞い申し上げます。
冷たい雨が3日続いた翌朝、庭の紅梅の木でいい声が聞こえます。
慌ててカメラを構え、ズームイン&連写。
「とりぱん大図鑑」(講談社刊)とネットで調べたらホオジロでした。
ホオジロ→youtubeで声も聴けます。
それにしても紅梅のほうはいまだ固い蕾のまま。
春爛漫、までにはまだしばらくかかりそうです。
6.古典落語と新作落語
2月26日、76年前(昭和11年)のこの日、東京は大雪だったそうです。見てきたわけじゃないですが。
平成24年もとても寒い曇り空、吉祥寺の前進座劇場へ、落語の会に出掛けました。
どちらかというと立川流や「SWA(創作話芸アソシエイション)」メンバーなどニューウェーブ系の会が多い私と友人夫婦、
たまには正統派もいいんじゃないかと、この日は入船亭扇遊、古今亭志ん輔、柳亭市馬という古典落語の名手三人会。
落語界の勢力分布を説明し出すと、「平清盛」の宮廷勢力図なみに複雑怪奇なので、おおざっぱに古典派と新作派と中間派がいると思って下さい。
で、東京の落語家は落語協会(落協)・落語芸術協会(芸協)・立川流・円楽一門会という4団体のいずれかに所属しています
(関西はまた別で、あまり詳しくないんです)。
笑点メンバーでいえば、歌丸、小遊三、昇太が芸協、たい平、木久翁が落協、円楽、好楽が円楽一門会。立川流はガッテン志の輔です。
しかし、立川流の家元談志、円楽一門会の先代円楽という創始者の没後、分裂している理由がなくなり、この分布は近々大きく変わるかもしれません。
ちなみに「SWA」はそういう所属を越えた親睦(?)団体です。
この日のメンバーは落協の実力者ですが、ほとんどテレビにも出ない地味なメンツ。にもかかわらず、客席はほぼ満席。
前進座劇場は、吉祥寺の住宅街の中にある、客席500のこぢんまりした劇場。歌舞伎から分派した劇団・前進座の自前小屋です。
基本的に歌舞伎を上演するための小屋ですから、回り舞台も花道も備えた本格的な劇場です。
ここで年に何度か開かれる落語会は、いかにも地元の住人に愛されている感じで、アットホームないい会でした。
でした、というのは、この日の数日後、突然前進座劇場が閉館されるというニュースが流れたからです。
隣接する病院の拡張に伴い、劇場敷地を売却するとか。劇団を経営・維持するためには残念ながらやむを得ないことのようです。
まあとにかく、この日はまだ誰もそんなことは知らず、うきうきと集まってきていたわけですが。
この日もとにかく寒かったので、前回と同じくヒートテックで全身を固め、ネル裏保多織足袋とステテコを装着。
その上に化繊の東スカート(踊りで使う裾よけで、筒状に閉じており、強風にもめくれないスグレモノ)と保多織のうそつき。
保多織のうそつきは、袖だけ柄物で胴は白無地、これに保多織の半衿をつけ、汚れたらそのまま洗濯機にポン。
半衿だけ洗剤をつけてもみ洗いをしておきます。縮んだりしないし、よくシワを伸ばして干せばアイロンも不要。
カジュアル着物の時はかなりの頻度で着用してます。なんてったって楽だし、清潔だし。
着物はこれもkimono gallery 晏であつらえたシルクウール。一見久米島紬風で、あったかいやらシワにならないやら、これもかなりのヘビロテ。
帯も八重山みんさーの半幅で沖縄風味。帯締めは、東急ハンズで買った革紐をアイヌ風の木彫りの帯留めに通しました。
羽織は明治生まれの祖母が娘時代に着ていたという絹綿交織の仕立て直し。
たぶん大正時代の着物なので、こいつは2.26事件を知っているのだねえ。
撮影場所は劇場の中庭。ここが喫煙所だというのがまたなんともすばらしい。
そして開演。まずは古今亭の前座・半輔の「初天神」、二つ目の志ん八が「たらちね」。軽く、きちんとした楷書の芸で場を温めます。
前座はまだ羽織を着ることを許されず、着物も木綿です。川越唐桟っぽい縞でした。二つ目からは羽織とやわらかものが許されます。
そして真打ち登場、まずは入船亭扇遊。
真打ちになると着物もお召しや羽二重や紬や、上等なものを着ています。
扇遊は何着てたかなあ? 明るい色のお召しっぽい着物だったような。
演目は「夢の酒」という初めて聴く噺でした。明るくやわらかな芸風にマッチした、ちょっと色っぽい、でもたわいない噺。
次は古今亭志ん輔の「子別れ」。酒乱のあげく遊女に入れあげた大工の熊さん、
妻子を追い出したものの、女には逃げられ、今じゃすっかり酒も断ち、反省の日々。
3年ぶりに会った息子の亀吉のおかげで、夫婦はもとの鞘におさまりめでたしめでたし。
「やっぱり子は鎹だねえ」「それでおっかあ、あたいを金槌でぶつと言ったんだ」というのがサゲで、別名「子は鎹」とも。
なぜか早死にの多い志ん朝一門では、志ん輔は師匠の芸を伝える貴重な存在。
声も調子もいいんだが、なんといっても顔芸がスゴイ。
内緒で熊さんにもらった小遣いを、誰にもらったと母に問い詰められた亀吉が、半泣きで告白する場面なんて、母も亀吉も顔面の筋肉フル稼働。
見てるこっちもついもらい泣き。でもちょっとクサイかな?
中入り(休憩)のあと、漫才が一席、で、トリはお目当ての柳亭市馬。
三人の中では一番若いのに、トリを取るとはさすが落語協会副会長。
演目は「二番煎じ」。町内の旦那衆が厳寒の夜、二組交代で火の用心の夜回り。
慣れぬこととてかけ声が浪花節になったり謡曲になったり。
ようやく番小屋に戻ると、誰言うともなく酒や猪肉や鍋が持ち出されて宴会となり、つい歌なんかも飛び出す始末。
そこへ町方の役人がやってきて、慌てた一同は、呑んでいたのは煎じ薬とごまかしますが、役人も承知の上で「煎じ薬を所望じゃ」とぐびぐび。
「薬はもう一滴もございません」「では拙者、町内を一回りしてくるゆえ、二番を煎じておけ」がサゲ。
市馬は歌のうまさに定評があり、CDも出しているほどですから、「火のようーじん、さっしゃりましょー」という声といい、
宴たけなわで飛び出す「さんさ時雨」といい、ほれぼれするほどのいいノド。
「ちょっと歌なんか歌っちゃいましょうか」と言うと、観客も心得たもので大拍手。
もちろん落語は五代目柳家小さんの直弟子で、将来の名人候補と言われる実力。声良し、調子よし、大きな体で芸風も大らか。
芸風も流派も違うのに、なぜか故・志ん朝を彷彿とさせたりします。
そういえば、市馬がマクラでも触れてましたが、師匠の先代小さんは、2.26事件の時、反乱軍の部隊にいたんですよね。
もちろん初年兵で、わけもわからず巻き込まれてたんですが。
生前「徹子の部屋」で、事件の夜、一杯のカツ丼を20人だかで食べたエピソードを語ってました。以上余談。
そういうわけでたっぷり古典落語を堪能し、帰路友人と「たまにはこういう正統派を聴いて、座標軸を確かめないと、自分の立ち位置がわかんなくなるよね(笑)」と語り合ったものです。
なんでかというと、翌週チケットを取ってあるのが、赤道と南極ほどにも違う、新作落語の会だったからなのです。
というわけで、月が変わって3月3日のひなまつり、そんなことには関係なく、
今度は渋谷区文化総合センターの「渋谷に福来たる」という落語フェス。
その中のひとつ、「円丈ゲノム」。出演は三遊亭円丈、春風亭昇太、三遊亭白鳥、林家彦いち。
タイトルを見ると何のこっちゃですが、ゲノムとは遺伝子、つまり円丈の遺伝子を嗣ぐ者、ということです。
じゃあ、円丈ってなんじゃいと言いますと、新作落語派のカリスマ、いや、神?
いま、新作落語をやる落語家で、円丈の影響を受けていない者はいないとされ、新作落語は「円丈以前、円丈以後」とさえ言われます。
昇太以下3人はいずれも円丈チルドレンを名乗る新作派。これに私の一番お気に入りの柳家喬太郎を加えると、「SWA」となります。
喬太郎は翌日の会に出演で、じつはそっちが取れなかったのでやむなくこっちの会にしたのでした。
会場は天井が高く、本来落語をやるようなホールじゃありません。
でも2階まで満席。土曜日だったので着物姿も多かったんですが、ロビーが大混雑で写真が撮れませんでした。
この日は前週よりは暖かかったので油断して、トレンカ(爪先かかと無しタイツ)を省略したらやっぱり寒かった。
それ以外はうそつきまで前週のをそのまま使用。着物は刺し子風の館林木綿、博多の半幅帯に祖父の村山大島を仕立て直した羽織。
この羽織も大正時代のだから2.26事件を…以下略。
実は後ろでちょっと遊んでまして、名付けて「なんちゃって紋付き」。
デパートの京都フェアでみつけた我が家の家紋のバッジ。これを背紋位置につけてます。
足下は足袋ソックスの上にちょっとサイズの大きい色柄足袋を重ね履き。
臙脂の帯締めを締めてみたら、羽織紐と重なってうるさいので取っちゃいました。
それはさておき、円丈です。
私が学生の頃、東京の落語界の片隅で円丈ブームなるものがありました。
その頃すでに志ん生、円生は亡いものの、先代小さんや古今亭志ん朝の全盛期、
落語は着物を着たおじいさんか、いなせな江戸っ子が座布団の上で端正に語るものでした。
新作落語といえば、「やまのあなあな」とか「よーしーこーさーん」とか、時代遅れの漫談みたいなものでしかなかった頃。
円丈はピンクの着物にミッキーマウスのワッペンをつけた紋付き(?)で、セルフレームの眼鏡をかけ、
江戸っ子口調などどこ吹く風で、北千住にゴジラを徘徊させ、「ミクロの決死圏」よろしく人体の内部に潜入し、座布団の上で暴れ回ってました。
深夜のテレビでこれを見て衝撃を受け、思わず新宿末廣亭まで追っかけていった私は、
一歩間違えば昇太や白鳥や喬太郎のように新作落語家を志してしまったかも(笑)。
ま、落研じゃなく漫研だった私はそうはなりませんでしたが、私とほぼ同世代の彼らは、あの頃末廣亭の客席にいたのかもしれません。
円丈のゲノムは彼らの内に芽吹き、今大輪のラフレシアのような花を咲かせています。
この会は、彼らによる円丈へのオマージュと、今なお第一線に立つ円丈の新作魂に満ちあふれた会でした。
円丈の直弟子・白鳥は、師の名作「悲しみは埼玉に向けて」をふまえた「悲しみは日本海に向けて」。
SWAメンバーの中でも最も古典落語から遠いスタンスで、口調も仕草もデタラメな白鳥ですが、最近独自の境地に至ったというか、
「落語とは思えないけど面白い」だったのが、「落語として面白い」になってきたような気がします。
つか、もうあんた、好きなようにやっておくれ、って感じかな(笑)。
昇太はこれも新作派の春風亭柳昇の弟子。円丈に衝撃をうけつつも、あえて厳しそうな円丈より優しそうな柳昇に弟子入りしたそうな。
で、優しい師匠の元で、円丈ゲノムを着実に育んでいったんですね。
「オヤジの王国」、このネタを聴くのは2度目ですが、やっぱり面白い。
彦いちは「三月下旬」。SWAの中ではやや若く、師匠は林家木久翁。
私はちょっとこの人は苦手というか、他のメンバーと較べるとあんまり笑えません。
トリはもちろん円丈で名古屋にひとつだけある寄席・大須演芸場のことを語る「悲しみの大須」。
名古屋ネイティブの円丈が駆使する名古屋弁は、そりゃあもう迫力だぎゃあ。
全編名古屋弁で語られる落語が円丈以外に考えられるだろうか。否であります。
久々に円丈ワールドを堪能。また、冒頭トークで3人が語っていたように、円丈なくしてSWAなし、ならば、円丈にひたすら感謝です。
円丈は我が母校の先輩でもあります。偉大な先輩に万歳三唱の一夜でした。
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